2008年6月22日日曜日

ほんとうの「基本」とは

Betty Edwardsは著書「脳の右側で描け」(第3版)の序文に続けて、「画を描く為の五つの基本技能」について述べている。この五つは「描く」ことではなく、それ以前の「観る」ことについてのスキルである。
「観る」ことの変革・・・

自転車に乗ることのように、文字を読むことのように、一度習得してしまいさえすれば以後意識することもなく為し得てしまうこと。それら五つを習得し統合できれば、描ける様になる。さらに加えて何かを学ぶ必要も無い。あとは習熟、洗練させていくのみ。

筆者はまだ純粋輪郭画の課題で停まってしまっているが、初めてこの課題を消化した翌日以降、確かに認知することに関してのささやかな進化を自覚した。

自宅傍の高架を走り去る新幹線の車内の様子が一瞬、止まっているように見て取れた
路を歩いているとき、弧を描いて飛ぶ燕の姿がはっきり見え、飛んでいく軌道を追うことも容易に出来た
聞き飽きていたCDの曲の、これまで気づかなかった音が溢れるように認識出来始めた。製作者の真意に近づけた気がした。

自分は変わり始めているのだろうか?正直判らない。
Edwardsは最初に、何も学んでいない状態で画を描き、それを保存しておくことを薦めている。
NGSの西野先生も、自分の演奏を録音しておくことを薦めておられた。
・・・実は筆者は「学ぶ前の画」を描くことをさぼって行わなかった。今は後悔している。

とにかく最後までEdwardsの講座を消化・習得すること。
そしてもうひとつ、新たに生まれた問いの答えを見出すこと。

「五つの基本技能」にあたるもの、音楽にも必ずあるはず。
それはなにか。そしてそれを習得するには?

2008年6月9日月曜日

on the Righit Side of the Brain

紫苑様の詩に再び触れたのとほぼ同じ時期に、再読していた本。

「脳の右側で描け(第3版)―The New Drawing on the Right Side of the Brain 」

以前傾倒していたフォトリーディングの解説で、神田正典氏が引用していたことから上記の著作と著者Betty Edwardsのことを知った。

本を購入した後も、半端な我流のphotoreadingで内容を確認した程度で
著者が示す課題に取り組むこともなく、本棚にしまいこんだままにしていた。

紫苑様の詩を味わっているうちに、自分の内に拓けていく領域を感じ始め
次に何とは無くこの本を手にした私は著者の主張に浸りきるように読み進み
最初の課題「“花瓶=顔”の図」、そしてピカソの人物画「イーゴリ・ストラヴィンスキー」の上下反転させた図の模写を始めていた。

画材などはない。写譜用の2B鉛筆で、愛用の手帳の一ページにだ。

時間にすればそれほどでもなかったはず。

でも筆を置く頃には、別の自分がいた・・・そう言っても言い過ぎではない程の
手応えを感じていた。

声無き歌

人気のサイトであったにもかかわらず、ドレミカフェはその後閉鎖されることになります。
サイトの「住人」たちは事態についての憶測、存続の為の議論、無意味ななじり合い等々を経て
結局は終わりを受け入れるほかありませんでした。

当時PCについてのスキルなど皆無であった筆者は、サイト内の作品群を保存できないかとじたばた足掻いておりました。
ネットカフェの端末からezwebのドレミカフェのアドレスを手打ちで入力し、サイトのページを開くまででかなり苦労し、そこからテキスト群を保存する段階でも勝手が分からず途方にくれる無能っぷり。

ただテキストを保存したいだけなら、サイトのページから文章をコピーして.txtファイルの中に貼り付けそれらを整理してまたフロッピー(当時まだ普通に使われていました)等のメディアに記録する。

たったそれだけのことだったのに・・・。
無知は無力です。
否、私の意志が薄っぺらで弱々しかっただけなのでしょう。
全てにおいてそうでした。当時の私は・・・。

それでも約百六十遍に上る紫苑様の詩作だけは
なんとか残すことが出来ました。
ただ詩だけでなく、紫苑様は短編小説も投稿しておられたのですが
すでに精魂尽きてしまっていた筆者はページ数の多さから
小説の保存は断念してしまいました。

ただページ開いてコピペするだけなんだよ・・・
当時の自分に教えてやりたい。
なんであれしきのことであんなに悪戦苦闘していたのか。
やっぱり無知は無力か。


今回、ドレミカフェを製作されていたSTUDIO M.O.G.様に問い合わせさせていただきました。
自分以外の方の、当時の投稿を転載することは許されるのか否か。
結論としては「執筆者自身の許可」が必要とのことでした。

実はドレミ閉鎖後も、紫苑様とは数回連絡を交わさせて
いただいていましたが現時点ではそれも叶わない状態です。

このbloggerで紫苑様の詩作を幾つか紹介させていただきたかったのですが
今回は断念いたします。

知識が欲しい
技が欲しい
力が欲しい
何より意志の力、思い描く力
創造するちからが

いろいろありまして自分の中の衝動が
日増しに膨れ上がっております。

ただ、これで終わるのも癪なので
不肖わたくしの当時の投稿を転載させていただきます。

紫苑様へのファンレターのつもりで書きはじめた一編ですが
最終的にはドレミの「ケータイ詩人」の皆様へ捧げるつもりで
詩のコーナーに投稿したものです。

お目汚しお許しください

★あなたに★
作者:ガッツ
2003年05月26日

その愛は
尽きる事なく

その怜悧さは
貴方と
貴方を包む世界を
映し出す

貴方だけが持つ
その韻の内に

心の一瞬を封じ込め
永遠の時へと放つ
その手練に

並びうる者は
ありません。

貴方が紡ぐ詞と
その心を愛する者より

2008年6月4日水曜日

音無き音楽

およそ五年前のこと、auの携帯専用のウェブサイトがありました。

その名は「ドレミカフェ

CASIOの提供で運営されていたこのサイトは運営側が執筆する小説―渋谷区恵比寿の某所で営まれている設定の架空のカフェを舞台に描かれる、そこに集う人々の日常―の連載を中心に、読者が参加できるサイト内のコーナーも多く設けられ、小説と各コーナーがリンクしている仕掛け等実に斬新でした。

当時はパケット定額制も存在せず、サイト巡りが日課だった筆者は通信費を抑えることに頭を悩ませていたものです。

小説と各コーナーのリンクとは、たとえば登場人物が掲示板に書き込みしてきたり、書き込みする様子が物語中に描写されたり、映画・CD・本の紹介等のテーマで各キャラの日記がアップされたり、物語中登場するカフェのグッズが実際に販売されたり・・・ひところ言われていた「メディアミックス」の試行の中でも最も意欲的なもののひとつであったと思います。

そのサイト内に読者からの投稿を受け付けるコーナーがありました。
内容は「小説」と「ポエム」

何故?それは解りませんw
ポエムって・・おいおい・・・
初見のときは思ったものです。

でもそれが結構盛り上がっていたのです。投稿だけでなく各作品にコメントを書くことも出来るし小説専用、ポエム専用の掲示板もあったりで多くの執筆者と読者がやりとりしていました。

初めは馬鹿にして見向きもしなかった筆者もいつしか熱心な読者に
なっていました。

ただ、多くの作品はやはり未熟といわざるを得ないものが殆どでした。
元の詩について云々する以前に、ろくに改行すら
されていないようなものとか。

「ポエム」ですからそれは文字として視覚から認識されます。

媒体は電子情報。この場合はケータイの画面。

そこで自分の内から生まれてきたものたちをどう見せたいのか?

「場」は紙かディスプレイか。本かケ-タイかPCのウィンドウの中か。

一行は何文字か

行間はどのくらい空けるのか

それだけでリズムとテンポ、そしてグルーヴは決まってしまう。

それを決めた上で、意味をもつ言葉を乗せていく。

ぼやけてるどころでなくその辺のビジョンが「無い」
これは作品として成立するわけがない。
投稿した後に公開されたページをみて確認・修正する、程度のことも
してなかったんだろうと思います。

でも、いたんです。
そうした素人たちの中に混じって、素晴しい詩人さんたちが何人か。

その中でも筆者がもっとも、今でも心酔している詩人さんがいます。

その方の通り名は「紫苑」